「後退」

決して大きな都市でもない市場において、かつては高額な家具を沢山販売されるインテリアショップがありました。

正直なところ当時はとても驚いたのですが、スタッフたちの意識面の高さが背景にあることを実感したことも思い出します。

既に15年以上が経過していることもあり、「当時は良かった」との言葉が聞こえてきそうですが、必ずしもそればかりではないようにも感じています。

先日は久しぶりに代表者の方からの連絡を受けたのですが、「もっと売れやすくするためにも価格面の協力をお願いしたい」との内容です。

最近になり同じものが数台立て続けに成約になったことが背景にあるようで、「更に売るためにも必要」との内容には正直なところとても残念な気持ちになりました。

20年近く前に比較的多く聞いた表現もあり、「○○万円までならば売れる」だとか「○○万円の声を聞いた途端に売れなくなる」とか、その内容は一体だれが決めたのでしょうか。

少なくともその当時はそのような表現に対して否定的な姿勢を持たれていただけに、そのように意識面を変化させてしまう状況が背景にあると考えると何とも言えない気持ちになります。

もちろん数多くの実際の接客の中から得る感触なのでしょうが、それをそのまま受け入れざるを得ない状況をつくり出していること自体に大きな問題を感じます。

それに対しては各種反論も聞こえてきそうなのですが、時代や世の中を言い訳にしたのではそれ以上建設的な話が出来ないことを、先ずは確認したい気持ちです。

すべてにおいて前向きな内容ばかりではありませんが、先ずは後退させないことを強く意識付けする必要がありそうです。

「エコの好循環」

新居へのお引越しの際には、出来ることならば家具においても一式を新調したいと考えることが一般的だと思われます。

他の必需品としては照明器具やカーテン等もあり、やはり相応に費用が発生することも事実です。

できることならば出費は低く抑えたいでしょうし、そうなるとどうしても各々の価格を抑えることになります。

家具の場合は実物を見て確かめないと納得も出来ませんし、それらを実際合わせた際の見え方も気にするとすれば、やはり一式が取り扱われているお店の方が都合は良いのかもしれません。

そのような理由からも比較的安価な製品一式をコーディネイト展示されているお店は便利なのでしょうし、その決して少なくない需要に応えているという点においては否定も出来ないと思われます。

しかしながら後悔しないためにも、家具選びにおいては一呼吸おくことを強くお伝えしたいと思っています。

安価な家具は予想以上に短寿命なことが多く、かつては優秀な耐久消費財だったものを消耗品として扱うことが少なくない現実にも危惧するものです。

何よりも地球環境が著しく変化していることを痛感することが多くなっている現実が背景にあり、多くのモノについて使い捨て文化が一般化したことによる弊害については真正面より向かい合う時期に来ているのではないでしょうか。

エコの基本はやはり「良いものを長く」ですし、少しばかり頑張って購入したものには自然と愛着も湧くものです。

愛着を持っているものは自然と大事に使用することにも繋がり、結果として長持ちもしますので、この好循環を多くのモノに当てはめることが出来るように更に心掛けていきたいとの気持ちを新たにしているところです。

「今の気持ち」

とても厳しくも無償の愛を注ぎ続けてもらった父が亡くなりました。

年齢が年齢だっただけに覚悟はしていたものの、やはりそれが現実になるととても悲しくそれ以上の感情はありません。

自分が亡くなった際に読みなさいと母に託されていた手紙の内容もとても父らしいもので、最後の最後まで信念を貫き通した姿勢はとても立派で格好良いものです。

そのような父にだけは相談しなければいけなかった大事な進路の方向性において、一度だけそれを曲げて自分一人で結論を出したことがあったのですが、やはり到底認められるものではなかったことが自身の人生における最大のターニングポイントになったようです。

それからは父に認められたいとの一心で頑張ってきたつもりですが、果たして認めてもらうことが出来たのか…と考えるとその答えははっきりしません。

ひとつだけはっきりしていることと言えば、自身の究極の若気の至りを寛大な心でずっと見守ってくれていたことは間違いありません。

専門分野ではなかったこともあるでしょうが、仕事面において具体的なアドバイスをもらったこともなく、ただただ私の決めた方向性を信じてもらっていたように感じます。

頑張りの背景として偉大な父の存在がなくなってしまったことは少なからず不安な気持ちもありますが、なんだかこれまで以上に見守られている感じがして、とても心強くも感じます。

まだまだ未熟者ですが、父の教えを守り精進する意識を固めたところで、デザインワークに限らずいろいろな面で新たな自身を見出すことが出来るように、更に頑張っていきたいとの気持ちです。

「当たり前のこと」

世の中は当たり前のことが大半を占めており、当たり前のことですがだから当たり前と言うことなのでしょう。

それだけに、たまに当たり前ではないことが起こると、意識はグッとこれに向くことになります。

「なぜ?」・「どうして?」のように疑問視することから始まることも多く、そのような内容はどのような形であっても最終的に解決する必要性があることからも意識が集中することになるのだと思われます。

そしてそれらの事象においても、上記を繰り返すことによりやがては当たり前のことに移行していくのかもしれません。

そのように考えると、今は当たり前のことであってもその前はそうではなかったのかもしれませんし、多くの場合は当たり前ではないことが起源だとするとその中にも少なからず問題点をはらんでいる可能性があります。

当たり前のことは既成概念と置き換えることも出来るでしょうし、良く言われることですがこれに縛られ過ぎると思わぬ落とし穴もあるのでしょう。

いろいろなことにおいて既成概念との意識を持っていない子供たちからは、時にはハッとするような質問も飛び出してきます。

「そう言われれば確かにそうだなぁ」と感じることも少なくなく、いつしかそのような気持ちを失ってしまった自身について考え、時には戒めることもあります。

このことはデザインについても言えることであり、常にその意識が必要とは限りませんが定期的に見直す必要性もありそうです。

しかしながらデザイナーは前衛的なアーティストではないことからも、ある部分ではいわゆるオーソドックスな部分も意識しながら取り組まなければいけないのでしょうし、目的は今現在や近い将来に必要なものを生み出すことにあることを再確認しているところです。

「そもそもソファとは」

あえて一度原点に立ち返ってみたいと思います。

ソファのない生活を思い浮かべると、自宅での寛ぎの場所は一体どこになるのでしょうか。

それはダイニングチェアだったり、フローリングのカーペットの上だったり、畳がある場合はその上だったりするのでしょう。

その姿勢を思い浮かべると、ダイニングチェアの場合オプションは少ないものの、床面での寛ぎの姿勢はいろいろとありそうです。

座椅子のようなものを使ったり、時には横になったりと、いずれにしても背もたれがないとずっと座っていることは難しそうに感じます。

一方ソファを設置しているにも関わらずよく耳にする姿勢として、フローリング上に座りながらソファを背もたれ代わりに使用されるスタイルがあります。

おそらくソファ自体の座り心地に満足していないからでしょうし、他に考えられる要因としては、足を伸ばして背を何かに預けたいとの欲求が背景にあるものと思われます。

後者の場合は、ソファ前に設置するオットマンがあれば事足りるのかもしれませんが、どうやらそればかりが原因ではなく前者の比率が高いように感じます。

寛ぎの基本スタイルは、バランスが取れた座面と背もたれの存在が必要不可欠なようで、同じ機能性を有するダイニングチェアであっても元来使用目的が違うことからも長時間寛ぎを得ることには不向きと言えます。

ソファと比較されるものとして、いわゆるリクライナーと言われるような一人掛けの休息椅子でも充分その機能を果たすのですが、ソファとは決定的な違いがあります。

やはり家族との凝縮した触れ合いの場になるものがソファですし、その機能性は人間工学から導き出された数値を当て嵌めるだけでは表現できないものがあるのだろうと思われます。