「コーディネーション」

「コーディネーション」

インテリアコーディネイトにおいても、センスの良い人は素敵な空間をつくり出すものです。

それが自身のお部屋であれば、当然のようにお好きなものを集めてコーディネイトすることになるのでしょう。

あるインテリアショップでは、取扱品の関係もあると思われるものの、手掛けたインテリアコーディネイトはどれも同じように見えます。

そのほとんどはブランド製品となりすべてにおいて有名なものなのですが、それゆえのワンパターン化は否めず、少なくともそこに際立った個性を見つけることは難しいものです。

インテリアコーディネイトをお仕事にされている方はとても多く、それだけ需要があるのだろうと思われますが、少なくともモデルルーム等を見る限りにおいては不思議とどれも同じように見えてしまいます

間取りは大きく変わることがないことも背景にありそうですが、どれもあるパターンに収まるように感じられ、しかも選定される家具はどれもどこかで見かけたことがあるものばかりです。

一度経験したものは安心して提案できるのかもしれませんし、何よりも自身が好きなものでコーディネイトすることは心地良いのでしょうから、気が付かないうちにワンパターン化しているように感じます。

デザインにおいても自身が好きなものを基本とすることはある意味楽なことなのですが、やはり誰のためにそのお仕事があるのか考える必要がありそうです。

自分自身の好みを押し付けることは、お客様のためになることは少ないものと思われるため、ヒアリングにて得た情報をまとめ上げたうえでそのお客様にマッチするものを提案する力こそが本物のプロだと思われます。

当たり前のことなのですが、デザインやコーディネーションは個人の好き嫌いとは別のところで行うことが大事になると考えます。

「格好いいこと」

自身の場合、車のデザインマインドを参考にすることが少なくありません。

小さい頃のスーパーカーブームを経験しており、それゆえ多少なりとも車に興味を持つようになったことは間違いないようです。

その頃はとにかく「格好いい」との判断基準だったことは確かで、公道で見かけるようなスタイルとはまったく違う次元ゆえの憧れのまなざしを向けていたものです。

フォルムは一様に斬新に感じるものばかりで、その中でも各々が特徴を持っていることに面白みを感じていたものと思われます。

「〇〇が一番格好いい」とか「〇〇のフロントが格好いいね」とか「○○はリアが特徴的」とか、子供ながらにいろいろと言い合っていたものです。

ところが実際公道を走る多くの車はスーパーカーではなく、一般的なものになります。

もちろんとても高額になることが一番の理由でしょうが、走りを極める目的において一般的に車に求める機能性や快適さを求めることは出来ないものです。

公道で見かける車はいわゆるメーカー色を保ちつつも各々が特徴を持っているものの、少なくともスーパーカーのような緊張感を醸し出すような恰好良さはありません。

むしろそうなり過ぎない配慮がところどころに感じられるもので、そのあたりが大人のデザインを強く感じる部分です。

デザインにおいてはやり過ぎないことが大事になり、特に家具においては機能性を犠牲にすることは出来ないため、単に格好いいとの評価に終わらないことが何よりも大事になります。

理想形は「機能性も含めたデザインが恰好いい」なんだろうと考えています。

「寛ぎ」

ソファに腰掛けていて、気が付けばフロアの上に直接座り、ソファを背もたれ代わりに使用されるような光景は比較的多いものです。

当然のようにソファ上で長く過ごすことに何らかの不具合があるものと思われ、それは寛ぎを求める人間としての自然な行動なのでしょう。

一時的なことかもしれませんが、少なくともソファ上よりもフロア上の方が心地良いと言うことなのでしょうし、やはりソファとして如何なものかと思ってしまいます。

体格差もさることながら人それぞれの寛ぎのスタイルがあり、そのすべてを一台のソファで満足させることは難しいものの、やはり可能な限りの柔軟性を持たせる必要があるものと思われます。

しかしながら単に「大は小を兼ねる」ではなく、それには細かな設計が必要になり、基本的なことを言えばいろいろな意味を含めて座クッションと背クッションのバランスはとても重要になります。

背もたれの角度はもちろんのこととして、一見すると分かり難い座面に設けられた僅かな角度も含めて、一台のソファには専門的な要素がギュッと詰まっているものなのです。

反対に、どこか一点でも欠ける要素があれば真に寛ぐことが出来ないソファになってしまいますので、まさしく総合力がモノを言う家具の代表格と言っても過言ではないかもしれません。

一方では体格差もあり万人にマッチするものは存在しないとの意識のもと、悪い意味で言い訳が通用する家具とも言えるかもしれませんが、本当にいいものを作っているとの想いがあればそのような気持ちにもなりえません。

そして何よりも、手放しで思いっ切り身を預けるソファですので、究極の寛ぎを得るためには構造体がしっかりしていることによる安心感をなくしては成立しないものと考えます。

「使う価値」

特に一枚板の世界においては、ただただすごいと感じてしまうくらいにとても高額なものも少なくありません。

その本当の価値は価格と比例するのかもしれませんが、素人には一見すると高額に見えるものが思いのほかそうでもなかったりすることも稀ではありません。

一般的にはそのサイズや厚み及び割れや傷の有無はもちろんのこととして、木目の細かさだったり、杢の出方だったり、産地のブランド力だったりと、やはり一番の価値は希少性なのかもしれません。

素晴らしいものほど入手するために困難を極めることになるのでしょうし、その度合いが大きいほど、もしかすると看板板的な存在になったり所有欲みたいなものだったりが生まれてくるのかもしれません。

この点において絵画に似ている部分があるのかもしれませんし、既に価格の問題ではなくなるくらいの価値を生み出しているのでしょう。

もちろん高額なものがすべての人にとって最高の価値を生み出すとも限りませんし、価値とはその人それぞれが決めるものだとも思われます。

そのように考えると価値をひとつの物差しで測ることは難しいのかもしれませんが、モノの立場になって考えた場合、やはり使ってもらって初めて価値が生まれるものも少なくないようにも感じます。

長年倉庫で眠っていたものが製品化され、その本当の価値を認めた人によって実際使われることによりようやく日の目を見るとでも言うのでしょうか、そのようなジョイントがうまくいくことによりその周辺に喜びや幸せが生まれるのでしょう。

立派な素材は、それに見合った加工技術が注ぎ込まれ形になることが一番の幸せなのでしょうし、何よりも大事なことは、それを使用したいと思う人の手に渡り実用的な家具として実際使用されることにより本当の価値が生まれるものと考えています。

「躾」

ソファにおいては特に、「子供が小さいから」との理由により、たとえ汚されても諦めのつくような安価なもので済ませようとする意識が強いように感じます。

そのような意識面についても充分理解できることなのですが、と言うことは子供さんが小さいうちはたとえその気持ちがあったとしても良いソファを使用できないと言うことになります。

ソファとは元来家族皆で寛ぐための家具ですので、なんだかとても複雑な気持ちですし、あまりにもこの意識が強すぎると本末転倒になるような気もします。

これは私自身の体験に基づくものなのですが、自身がデザインしたソファはモニターの意味も含めて自宅で使用することも少なくなく、過去にはいろいろなタイプのソファを試してきました。

例えばウッドフレームタイプにおいては、デザイン性の観点からも極力エッジ部の面取りは小さくしがちです。

アーム部の足元部分が垂直に立ち上がっていたり、大きく外側に張り出していたりするようなデザイン性のものにおいては、家の中では常に裸足でいるような子供たちにとってはそれが凶器と化すこともあります。

それに足の小指を何度かぶつけた息子からは、痛みに耐えながら「このソファ捨てて」と言われたことでハッと気付かされることになりました。

別の事例としては、ホワイト系の生地で張られた綺麗なソファの上にアイスクリームのチョコレートを落とされたこともあり、その際にはさすがに血相を変えて揉み洗いをしたことも思い出します。

もちろん小さな子供のすることですので叱ることはなかったのですが、それ以降はソファの上で食べたり飲んだりすることはなくなりました。

親が大事にしているものは小さな子供であっても充分伝わることの証であり、これが躾に繋がるとなれば少なくとも親が大事に使いたくなるようなクオリティのソファを使用することが必要になるものと考えています。